「・・寒いなぁ・・」
日中残暑が厳しい9月上旬と言えど夜は冷える。
昼間憎たらしいほどの秋晴れだった青空は、綺麗な群青に姿を変えていた。
「秋ですねぇ」
満月には遠い、上弦の月から目を離さずに、宗次郎は部屋の奥でグラスを傾けている男に話しかけた。
「虫はまだ鳴いてないや、つまんない。でもほら、綺麗ですよ月、ねぇ志々雄さん」
志々雄はグラスを仰ぎ、目線だけ動かして一瞥し、また手元に戻した。
宗次郎はふふ、と笑って、戸を開け放つ。
「おい」
侵入してきた冷たい夜気に、咎めるような声。
尤も、常人より体温の高い志々雄にとってはなんでもないことなのだろうが。
「ひんやりして気持ちいいですよ?」
再び大きな瞳に月を映し、宗次郎は薄く笑う。
薄い膜を張ったような曖昧な色の夜空よりも深い、藍の髪が風に散った。
冷たい空気で肺を満たせば、枯れ草のような微かな香りが鼻を突いた。
枯れ草の香りに、刻み煙草の匂いが混じる。
カン、と煙管の灰を落とす音。
そろそろ夜気が身体に染み込んだのだろうか。
宗次郎が自分の着物の袖を掴むと、ひやりと冷たかった。
雲ひとつ無い空を見ているうちに、奇妙な感覚に襲われる。
なにかが、ひたひたと脊椎を這い登ってくるような気持ち悪さ。
それが恐怖という感情なのだというのは、遠い昔に忘れてしまったけれど。
幼い笑顔は、さながら針の筵の如し。
どおどおと。
天の底を突いたような、土砂降り。
大きな雨粒が地面を叩き、硝子戸を揺らした。
視線を横にずらし、傍らに傅く奴を見る。
目尻は柔和に細められたまま、物憂げに外を見遣っていて。
ああ、そうか。
こんな、雨の夜だったか。
細い指が結露した硝子の上を滑って、特に意味も無く、線が引かれた。
濡れた指を、奴は思案顔で眺める。
否、結露に濡れた指に、何かをダブらせているのだろう。
兎に角、上っ面は笑っているくせに、この日、こいつは酷く沈んでいた。
「おい」
「・・どうかしました?」
「何、考えてる」
眉が、八の字に下がる。
「別に、何も考えなんて無いですよ」
俺が問えば、にっこりと、笑みの色を濃くした。
「あの日か」
「・・・・珍しいですね、詮索なんて」
「後悔か、それとも自責か何かか?」
「嫌だなぁ。あれは自然の摂理だって、教えてくれたのは志々雄さんでしょう」
ただ、ね・・・と、そこで言葉を切り、宗次郎はまた外を見る。
「ただ、思い出すんです。思い出すと・・血が。血が滾る」
口元が何とも言えず歪んでいたから、きっとそれは嘘なのだろう。
あの日も奴は笑っていた。
否、泣きながら、笑っていた。
大粒の雨に打たれ、雨と返り血でぐしょぐしょに汚れながら。
自ら手にかけた屍の上で、涙を流し、笑っていた。
笑うこと以外の感情を亡くしたこいつは、無感動にまた外を見た。
他人の恐怖なんぞ、どうでも良かった。
そいつの抱える闇なぞ、俺には関係なかった。
ただ。
「・・・手前は」
「・・はい?」
「手前は余計なことなんか考えねぇで、俺のために働けば良い」
「・・はい、志々雄さん」
一瞬虚を突かれた様に目を見開き、直ぐにいつもの笑顔を浮かべ、頷いた。
尤も、浮かべた笑顔は中途半端に歪み、泣き笑いのような酷く滑稽な物だったが。
未だ降り止まぬ雨。
雨粒が強く地面を叩く音が、硝子越しに色褪せて俺の鼓膜を振るわせた。